こんばんは。ヤマイママこと宇佐めぐみです。
ちょっと脳みその調子が良くありません。(頭悪そうな発言)笑
何というか精神的というより、とにかく脳みその調子が悪い!!と感じる今日この頃です。
今日は前回の【母の最期①】の続きです。①は【ALS】母の最期① - ヤマイママとマメ3つ
母はお花が好きだったなぁ。
奇跡的に意識が戻った後…
意識が戻り、呼吸の状態も回復したひよこ豆さん(実母)はまたリクライニングチェアに戻り、二人介助でポータブルトイレに行けるようになった。
その翌日、私が母のベッドを借りて仮眠していると姉2人と母の話し声が聞こえた。もちろん母は声が出ないので筆談。姉の声しか聞こえない。
でも話の感じからなんとなく言ってる事は想像できた。
母はもう終わりにしたいんだと…
その夕方、姉がシャワーを浴びている時私は母にハグをして甘えていた。何気なく「さっきお姉ちゃんと何を話していたの?」と聞いた。
これが本当に最後の選択
ひよこ豆さんは「お姉ちゃんに聞いて」という。シャワーから上がった姉に聞くと渋い顔をしてどうしようかという感じだったから私から話しを切り出した。
「もう終わりにしたいっていったの?」
母は辛そうにうなずいた。気持ちよく寝ていて起きたらみんながいてとても幸せな時間だった。あのまま終わりが良かったのだと…。
目が覚めて、呼吸は苦しく、体は思うように動かない。全てにもう絶望したんだと思う。
「私が独身だったら終わりにしていた(自殺補助的な意味で)かもしれないけれど、今は子供達がいるからそれは出来ない。だから先生に相談しよう」
ひよこ豆さんに安らかな終わりを提案したのは私だった。
父がすぐに訪問診療の先生に連絡してくれて外来が終わった後、夜も遅かったが先生は来てくれた。
事の経緯を話し「呼吸苦を緩和するために意識がちょっとふわっとするお薬を使いましょう」
と提案してくれた。
母はハッキリとした文字で
「私としては早い方がいいです。苦しすぎます」
と意思表示をした。
実際の母の文字
先生は「わかりましたお薬で眠りましょう」と夜間だったので手持ちの安定剤と眠剤で鎮静を指示してくださった。
その薬を胃ろうから注入したのも私だった。「安楽死と何が違うのだろう」と思った。今でもあの感覚は忘れない。
鎮静がかかるまで先生と色々話した。朝になったらもっと強い鎮静がかかる薬を届けてもらうようにするので、また覚醒するようだったらお薬を追加してくださいと言われてその日は寝ずの番だった。
明け方母が覚醒し、トイレに行きたがったが、鎮静剤でフラフラして危ないから、となだめてお薬が来るのを待った。
鎮静が中途半端に覚めている母が1番辛そうで私は別室で泣いた。帰宅時間が迫った姉に行かないでとわがままも言った。
坐薬が効きはじめ、酸素濃度もさがった事で意識レベルも低下。やっと母が落ち着いて安らかな顔で眠り始めてホッとした。
たくさんの奇跡。お世話になった人に囲まれて
最後の日。とても仲良くしていた方が十数年ぶりに訪ねてきた。たまたま近くに用事があって来てくれたらしい。すごいねとみんなで驚いた。
それから、リハビリが始まった時半年くらい一緒に試行錯誤したPTさんと保健所の担当さんも来てくれた。
母の大好きだった友人も来てくれた。
夕方には、近くに訪問があったのでとひよこ豆さんも私も1番信頼していた訪問看護の看護師さんも顔を見にきてくれた。
「ひよこ豆さーん私今日夜の当番だからいつでも呼んでねー」いつもと変わらぬ元気な声で話しかけてくれた。
今思うとひよこ豆さんにそれがきこえていて自分で選んだんじゃ無いかと思う。
21時に来たヘルパーさんの時は問題なかった。
22時頃また顎呼吸になり酸素濃度を測るオキシパルスメーターが、測定不能になり看護師さんに電話して来てもらった。
おだやかな最後の時
そこからゆっくりと心拍は遅くなり、駆けつけた兄と私の息子と看護師さんで看取った。
まだ暖かいひよこ豆さんにハグしながら「ありがとう…お疲れ様」といった。
エンゼルケアを手伝い、遠方の姉と電話で相談しながら昔よく着ていたワンピースを選んで着せてもらった。
私の化粧品でお化粧もして少し、口元には笑みすら浮かべているようだった。
ひよこ豆さんの短くて長い、辛くて苦しい戦いがやっと終わったのだ。
音楽葬で見送り
神も仏も居ない。いつか父がそう言った。
本当にそう思った。最後に目覚めさせてくれたのは少しの罪悪感からだったのかも。
仏葬もしない。ひよこ豆さんは音楽が好きでコーラスも始めたばかりでの発病だった。よく通る声でとても上手だった。
私の兄姉は音楽一家なので音楽葬で見送ることになった。
綺麗に飾られた祭壇の中央には、鎮静をすると決まったあと、ひよこ豆さんが自ら選んだ写真を飾ってもらった。
家族で海外旅行した時の笑顔のひよこ豆さん。
あぁ。本当に終わってしまったのだろうか。眠っているひよこ豆さんをみてもあまり涙は出なかった。
それくらい辛く、体力的にも精神的にも辛かった約3年間だったのだ。
4ヶ月たっても実感なんてわかなかった
月に1.2回は花を買いひよこ豆さんに会いに行っている。
父の背中は寂しそうで毎日コーヒーを供えて花瓶の水をかえてくれている。
私は未だにひよこ豆さんがいないという事が実感できずにいる。依存する事で保てていた精神も急下降し起き上がれない日もある。
うまく飲み込めていないのでひよこ豆さんの死が悲しくてとかではなく、精神的よりもただただ身体的にめまいや頭痛、倦怠感、震えなど生活に支障がでている。私の病気の話はまたの機会に書けたら書きますね。
これがひよこ豆さんの最期のお話。ALSという病気の中では穏やかに最期を迎えられたのではないかと思っている。
それでも人工呼吸器を着けて長く生きて欲しかったと今でも思ってモヤモヤしている。
けれどひよこ豆さんにとってそれは苦痛でしか無かったんだろう。
ひよこ豆さんの意思が変わるのはきっと完治しか無かった…。
この病気が1日でも早く完治する病気になる事を願い、闘病中の方を励ますくらいしかもう出来ないけれど願わずにはいられない。
こんな苦しくて辛い病気を私は他に知らないから
全てのALS患者さんが少しでも楽に楽しく暮らせるよう願っています。
2019年12月2日宇佐めぐみ